歴史と文化

参考資料:『曹洞宗 里中山 龍澤寺』パンフレットより

曹洞宗開山以前

藤原時代の開山

 龍澤寺は古来、磐井の里中津の郷と呼ばれた一関市中里に位置し、東側には葛西時代に瀬原小野寺氏が居城した中里城があり背後には沢田山がある。南北に奥州街道、中里より北上川を横切って今泉街道が舞川を通り大原を経、気仙まで通じる古道がはしる。
 舞川の地、舞草は日本刀のルーツ、鍛冶集団が居り朱鳥元年(686)の刀剣や、磐井二座の一社、延喜式内社の舞草神社で知られる地域である。
 その地龍ヶ沢に、平泉藤原時代の天台宗寺院群のひとつとして当寺の前身、望渕山龍澤寺がここに初開された。文治二年(1186)、藤原三代秀衡の三男、泉(和泉)三郎忠衡によるという。今にして土台石のみが残る。
 忠衡は長男国衡、嫡男泰衡と共に、文治三年十月二十九日、秀衡によって「義経を大将軍として国政をとらせよ、兄弟は仲良くし、義経を主君として仕えよ」と遺言されたという。

葛西領の下で

 平泉を平定した頼朝の陣には鎌倉武家集団が居た。そのなかでひときわ軍功があったのは葛西三郎清重で、頼朝は清重に、江刺・伊沢・気仙・元良・岩伊・奥田保・黄海保の本所五郡二保を与え、奥州検非違使(奥州惣奉行)に任命した。三十万石相当の大々名格であった。文治五年(1189)九月二十四日のことである。以来葛西は天正十八年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置によって十七代晴信が亡びるまで四百年にわたってこの地を治めた。しかし、その内実は同族間の勢力争いや、伊達・南部との抗争・南北朝の戦いで、融和・合戦を繰り返しているのであった。
 葛西が領した岩井(岩伊)地方のうち、山ノ目村・中里村・増沢郷は阿津賀志山の戦いで軍功を挙げた瀬原小野寺氏が建久二年(1192)、頼朝より賜り永泉寺裏の中里城(阿部沢館・古館)に居城した。龍澤寺と直接関係するものは認められないが、葛西清重の家臣であり、小野寺修理・久道・主計頭の名が残る。
 龍澤寺は正治元年(1199)葛西清重によって北上川右岸の中津の郷字漆原の金光(小)橋の地に舞草邑より移転されている。その地は今泉街道正覚より東に五百メートルのところで先年までその跡があった。堂宇が焼失したためであろう。しかし葛西宗家直接の再興ではなく、この小野寺氏の手によって再興されたものと思われ、小野寺氏は南北朝の争いの時には葛西の麾下で宮方(南朝)の陸奥守北畠顕家公に仕え、山ノ目・中里・三ノ関などの千七百貫(約一万七千石)を領地し、やがて葛西と共に武家方(北朝)に属している。
 南北朝の時代には鎌倉新仏教が次々に誕生している。貞和四年(北朝年号・1384)に江刺の黒石邑に曹洞宗奥羽二州の大本山、大梅拈華山円通正法寺が無底良韶禅師によって開山した。開基は葛西の家臣、黒石鶴城館々主黒石越後守正端と長島長部館々主長部近江守清長で境内地を寄進している。

曹洞宗に改宗

 龍澤寺は天正十二年(1584)に金光(小)橋の堂宇が焼失。翌年葛西晴信または小野寺氏によって再建されたが数度の北上川水害により中里の沢田山の西の山背(里ヶ丘)に移転した。
 このときの「當寺開山大空寛全禅師霊位」の位牌が残されている。既に曹洞宗に改宗していたと思われる。
 元亀二年(1571)九月十二日、織田信長が天台宗総本山比叡山全山と山王二十一社をことごとく焼き打ちにした影響で全国的に天台宗が廃れ、領主達が禅宗に帰依したこともあり、天台宗寺院が曹洞宗に改宗する風潮が見られた。
 しかし、天正十八年(1590)三月、豊臣秀吉による小田原の「北条攻め」に対して全国の諸候に参陣を求めたが南部と伊達は応じたものの葛西は富沢の乱・浜田の乱の内戦のために参陣することはできなかった。秀吉の「本領安堵」により南部七郡が定まり、奥州仕置軍により葛西領は天領となり木村吉清が治めた。木村の酷政と伊達政宗の「奥州同盟結成」策により、岩崎の和賀・稗貫一揆や葛西・大崎一揆が生じ、木村は追放されたが天正十九年八月、桃生郡深谷に集められた葛西・大崎一揆の主謀者たちは政宗によりことごとくなで切りにされた。その中に中里の領主、小野寺伊賀道照も居た。領主たちのの没落により、外護者もなく龍澤寺もまた無住の寺となってしまった。沢田山の龍澤寺の跡には檀家一族の旧墓や行屋・参道跡がわずかに残っている。

正法寺末寺として

 龍澤寺は寛永元年(1624)に耕雲在秀大和尚によって再興開創し、師僧の格翁良逸大和尚を開山に勧請した。自らは二世となっている。格翁大和尚は慶長九年(1604)十月に瑞徳寺八世の後に正法寺に入山している。正住十七世となったのは寛永十一年(1634)七月十七日であり、翌年十一月一日正法寺で正住のまま示寂している。当寺が開山した時の正法寺は十五世の大休良通大和尚が正住であり、その後に春嶺良夏大和尚が務めている。春嶺大和尚は当寺に隠居し遷化している。格翁大和尚が正法寺に上山して正住になるまでの間は正法寺にとって激動期であった。
 戦国期を経て中里は仙台藩の直轄領となった。慶長十二年(1609)八月十三日、總持寺五院評定により正法寺の格式が「出世」執行を行う正当な格式を有していることを認める来状が總持寺塔頭の洞泉院より届く。
 慶長十四年、伊達政宗公より胆沢郡の買米許可。

 元和元年(1615)總持寺諸法度が幕府により発布され関三刹の下、仙台四力録寺の管理の中に置かれ本山の格を失い、總持寺の筆頭末寺となる。
 寛永元年(1624)に格翁大和尚は請われて龍澤寺の開山となり続いて的叟寺、寛永八年には城玖寺の勧請開山となっているが、格翁大和尚の母堂が龍澤寺で死去していることから当寺にはその間住持していたと思われ当寺の山号を「里中山」と改めてもいる。その後寛永十一年に正法寺の十七世、輪住一三二代、続燈庵は本山の格式を失ったことから十三代で事実上廃止されてしまった。当寺の二世耕雲在秀大和尚は正法寺での格翁師の弟子であったと思われる。